バ科学者のノート 2冊目

小説をただひたすらに書いていく

54 後ろの正面

夜は人が氾濫する
それまで建物に閉じこもっていた人々が、新たに閉じ込められるために外に解き放たれる時間なのだ
ルソーはこの時間が嫌いだった
氾濫する人の海を割って進まなければならないから
その派手すぎるグラデーションの髪に集まる視線に耐えなければならないから
ルソーは夜と、夜以上に、自らの髪が嫌いであった

ふと、見たことのある人影とすれ違ったような気がした
ルソーはわずかに振り返るが、もうその人影は呑まれて見えなくなっていた
立ち止まることの許されない人の波に押され、ルソーはその場を立ち去った

すれ違った人影はふっと息を吐きながら言った
「全く、相変わらず目立つ髪ですこと」



視線を感じる
人の波を抜けたルソーのその感覚は、人気が少なくなるにつれ確信に変わっていった
誰かが自分をつけてきている。大方、この目立つ髪のせいだ
ルソーは立ち止まった。後ろの視線がこちらに近づいてくる
一歩、一歩。そして、ルソーは聞いた
心器の出てくる、あの気持ちの悪い音を

ルソーは路地裏に蹴り出した
後ろの影も追ってくる。やはり狙いは自分のようだ
左胸に右手を突っ込みながら、細い路地を飛ぶように進む
後ろでゴミ箱の転がる甲高い音がした

ようやく開けたところに出ると、ルソーは包丁を取り出しながら後ろを振り返る
追ってきた男が、月の光に晒される
長い銀色の髪、高い身長。そして、その身ほどあるであろう大きな赤い鎌
心器とはいえ、あれだけのサイズのものを抱えて、ほぼ同じ速度で追ってきたと考えるとぞっとする
息こそ乱れていたが、体力にはまだ余裕がありそうだった

「……ああ、ようやく、ようやく見つけましたよ」
男が言う。ルソーは記憶を遡りながら包丁を構える
「ようやく、貴方の顔を見ることができました、『弁護士』さん」
「裏の世界の者ですね。貴方、何者ですか」
あくまで冷静にルソーは問う

「私はフソウ。この近隣で料理人をしながら、殺人を少々」
「塩を少々」のノリで言われても困惑する趣味の持ちようである
「フソウ……、料理人……、ああ、貴方、最近噂の殺人鬼ですね」
ルソーは名前を聞いてすぐに思い当たった
つい、本当につい今しがた聞いたばかりの殺人鬼、『変態』
今目の前にいる男こそが、その『変態』なのである

「それで、何のご用ですか。僕は早い所、帰ってしまいたいのですが」
「まぁ、そう焦らずとも、貴方を生きて帰すつもりはありませんから」
クツクツとフソウは笑う
「聞いたところによりますと、貴方、冷酷非道すぎて表情一つ変えないそうじゃないですか」

「貴方の「表情」と、血が、見たいだけですよ」

ルソーの頭の中で警鐘が鳴る
いくら殺人鬼とはいえ、殺人鬼を目の前にしてこの余裕である。かなり危ない。そうサイレンが鳴って止まない

「……さぁ、お話はここまでにしましょう」
フソウが鎌を振り上げた
「貴方の悲鳴、聞かせてください。そして私を潤してください、貴方の血と涙で!」
振り下ろされた鎌を、ルソーは下がることでかわした