バ科学者のノート 2冊目

小説をただひたすらに書いていく

記憶のない男

梨沢英介には記憶がない

気が付いたらこのセカイにいて、自分は物理学者で、あてもなく彷徨っていたところを探偵事務所に拾われた
梨沢はそう言う
元の「世界」に帰ろうとも思わないし、今のままの生活が一番心地よかった
ある疑問がささくれ立ち、主張をしていることをのぞけば

「なぁ」
バイスをつつきながら梨沢は声を上げる
偶々部屋には梅ヶ枝と栗原が居り、二人の視線がそちらを向く
「このセカイって、ゲームなんだろ? お前ら、元の世界に帰ろうとは思わないわけ?」
その問いかけに、二人は僅かに困惑する

「僕たちは……このままでいいかなって思ってる。僕たちみたいな人間、元の世界じゃ受け入れてくれないからさ」
そう言う栗原はしかし、どこか梨沢の言動を探るように返す
梨沢は「ふーん」と答え、やはりデバイスをいじっている
「まぁ、ここの方が居心地いいもんな」

「かく言う貴方は如何なんです、梨沢様。元の世界に帰ろうと思ったことはないのですか」
梅ヶ枝の問いかけに、梨沢は首を振った
「それが、帰ろうにも何やっても駄目でさ。俺自身、帰りたくないってか、帰ったらいけない気がする」
焦点の合わない目で梨沢は呟いた

彼の心には一つのささくれが立っていた
それは、【フィジカリスト】という、彼自身のID
彼は気付いていた。このセカイはゲーム
「ゲームに物理学は必ずしも通用するものではない」。それを彼は感じ取り、しかし、何故自分は「物理学者」であると最初から悟っていたのだろうと考えていた

「……あ」
ひとつ、梨沢は声を漏らす
脳内にノイズが走る。架空のノイズが
触れてはいけない核心に僅かに近づいてしまったことを悟り、梨沢は思考をやめた

「どうかなさいましたか、梨沢様?」
梅ヶ枝の呼びかけに、「悪い」とだけ返した梨沢は、そのまま部屋を出た
「梨沢、かなり戸惑ってるみたいだね」
「いずれ真相に辿りつくことでしょう。私たちは見守るまでです」
そういう二人の会話は、全く耳に入ってなかった