バ科学者のノート 2冊目

小説をただひたすらに書いていく

19 サラブレッドの苦悩

羽鳥日菜は特別音楽に明るいわけではない。だから、ある程度有名なバンドの名前は聞いたことあれど、著名なピアノ奏者とか、バイオリン奏者まではよくわからなかった。安藤の親がそういう「有名人」だと知ったのも、虎屋の誘いで食事に行った時のことだ。
「安藤力也と常光紗良。聞いたことない?」
「うーん……」
パスタを絡めたままのフォークが空をなぞるので「行儀悪い」と虎屋にお叱りを受ける。
「ピアノ奏者の安藤力也、バイオリン奏者の常光紗良。どっちもコンテストでガンガン賞を取る、有名な音楽家よ」
「で、その二人の子供が、安藤義幸さん?」
「そ」

 

羽鳥はスマートフォンに指を滑らせる。
「本当だ、結構有名なんだね。」
「おかげさまで、そんな二人の間にできた子供だから、よしくんはサラブレッドとして期待されてたの」
「……?」
含みのある言い方だ、と羽鳥は思った。期待「されていた」、なら、今は?
「……分かるでしょ、今、よしくん、どうなってるか」
虎屋の表情に影が差す。

 

「学校での成績もよかったの。運動は苦手だったけど、勉強はできた。でも、よしくんに遊ぶ余裕なんてなかったから、孤立していってね。ある時を境に、彼は引きこもりになった。それも、親のいる部屋にすら出てこないレベルの、ね」
「何で? 子供だから勉強詰めでも遊ぶ余裕位……」
「よしくんの親は厳しかった。時間に隙間ができれば、両親はよしくんに音楽を押し付けた」
あ、と羽鳥は声をもらす。
「学校がない時間は朝から晩までピアノかバイオリン。家庭教師までつけて厳しくよしくんを躾けた。それを彼は望んでなかったというのにね。だから彼は、親が大嫌いなの。顔も見たくないんだってさ」

 

羽鳥は意外に思っていた。今の安藤が作る音楽は、人の心を救う明るい曲だと思う。そこに行きつくまでに当然その教育も影響しているが、それよりも。
「音楽が好きじゃないと、あの音は作れない気がするんだけど……」
「音楽は好きよ。「インターネットミュージック」はね」
羽鳥はなるほどと思った。「音楽」で一緒くたにするのではなく、安藤はジャンルごとに音楽を見ている。きっと嫌いになったのはクラシック音楽。そして、彼の安寧はインターネットミュージックなのである、と。

 

「……最近、よしくん、辛そうでさ」
虎屋はそこまで理解した羽鳥に話を切りだした。
「今に始まった話じゃないかもしれない。けど、よしくん、電話するたびに「ノイズで頭が痛い」っていうの。多分、言ってるのは、両親の声」
「……」
羽鳥はなんとなく、自分にも説得を手伝ってほしいのではないかと感じ取った。おそらく、虎屋の説得だけではどうしようもできないのだろう。
「私にできることなら。でも、その前にちゃんと安藤さんから話が聞きたいです」
虎屋は小さく「ごめんね」と返した。