バ科学者のノート 2冊目

小説をただひたすらに書いていく

22 明かせない「私」

安藤の家から速足で離れて数分。街灯の少ない路地で虎屋は足を止め羽鳥の手を放した。振り返る虎屋。羽鳥は思わず肩を震わせる。
「……ごめんね、怖かったよね」
虎屋はいつもの明るい声で、けれど、どこか悲しみを含む声で言った。
「こんなの、ひなちーに見せるつもりなかったんだけど、つい、かっとなっちゃった」
「その、「虎屋山月」って……」
「私の筆名。私、本当に小説家になれって言われてたの」

 

趣味で嗜んでいるという執筆した小説を羽鳥も読んだことがある。のめりこんでしまうほどに迫力があり、どこか心を抉る、表現力あふれる作品。虎屋が小説家であると言われても納得はするが。
「「言われてた」? 今は違うの?」
「うん。周りの大人が敷くレールの上を歩かされるのが嫌になってきてね。もっと楽しいことがしたくて、プロデビューの前に人のために小説を書くのをやめて、よしくんの誘いに乗って音楽の世界に。そりゃあもう、非難轟々だったけど」
明るく話す虎屋だったが、羽鳥は逆にそれが怖かった。
「「虎屋山月」って名前を持ってこられるとね、どうして小説家にならなかったんだって責められてるみたいで、私は嫌なんだ。だから、それをさっきみたいに山車にされると私も冷静になれなくてさぁ」

 

「……イズミちゃん。どうしてそんなに平気そうに……「笑顔」で、話せるの?」

 

自分も踏み込んでしまうかもしれないと思った。あの虎屋の餌食になるかもしれないと思った。それでも、いつもの笑顔を何事もなく張りつける虎屋に、聞いてしまったのだ。
虎屋は暫く黙っていたが、やがて思い出したように話を切り替えた。力づくで、切り替えてしまった。
「よしくん、そろそろ頭がいかれてしまいそうとか言ってるし、本当にどうしようね」
「え? ……あ、えっと、だ、誰かに頼れないかな……」
「仕方ない、一度なっちゃんとネロくんに相談だ」
虎屋は電話を取り出した。