バ科学者のノート 2冊目

小説をただひたすらに書いていく

34 感情の波

一段、一段。壇上への道を踏みしめる。
上には既にDJの安藤が覆面を被って待っている。

 

グレフェストーナメント、一回戦当日。既に数組が演奏を終えていた。どれもバンドロックを主体としたテンションを上げる音楽。会場の熱は確実に上がっていた。
「最初だから、大丈夫だから」
そう言って聞かせてくれた虎屋も、北河も、丸久も。きっと願っていることは同じこと。

 

「ひなちー」
顔を上げると、安藤が手を差し出し待っていた。
そして、彼の言葉が、青いドレスに身を包んだ羽鳥の意識を変えた。

 

「変えるぞ、何もかもを」

 

『Happiness tear』。透き通った羽鳥の声を乗せ、静かに音楽が始まる。雰囲気ががらりと変わったバラードに、会場はどよめく。
大丈夫だ、いつも通り、歌えばいい。震える手を重ねてマイクを握り、一音一音確実になぞっていく。
DJ席で音を調整していた安藤は後ろから羽鳥の様子を見て、一つ頷く。そして、そっと彼女のインカムに声をかける。
「我慢するな。お前の好きなように歌え」
それが、安藤の作戦。
やがて客の一人が羽鳥を見て気が付く。

 

「あの子、泣いてる……?」

 

ちらり、ちらりと観客は気が付きだす。羽鳥が泣いている。涙をこらえようとしているが、それに反して感情の波が彼女を襲う。

 

やがて涙が一滴床に落ちる。

 

落ちサビから盛り上がる一瞬。涙が落ちた一瞬。
プロジェクションマッピングが展開され、会場を明るい青に染めた。

 


『羽鳥の感情を抑えずに歌わせる』
安藤の切り出した作戦はこれだった。感受性豊かな羽鳥は涙を誘う歌を歌わせると自分も泣き出してしまうほど歌に感情を込める。配信音源を作る際にそれは仇にしかならなかった。だから今までは羽鳥の過剰な感情を抑えてきた。
だが、震えが止まらないと聞いた安藤は、逆にこの歌を歌わせることで「震えが感情を見せる演技である」ように見せかける作戦に切り出したのだ。
当然虎屋と北河は最初反対した。諸刃の剣をいきなり羽鳥に振らせることへの不安があったのだ。

 

(……)
安藤は黙って羽鳥の様子を見ていた。プロジェクションマッピングの展開に合わせて涙をこぼしたのは計算か偶然か。
いずれにせよ、あれだけ熱のこもった会場はクールダウンし、いい意味で静寂に沈んでいた。

 

ロック続きの会場にバラードをぶつけ。
歌手は涙を流し。
会場を青い空へと誘った。

 

「salvatore」は、初出場にして異例の、二回戦進出を決めたのである。